記憶に残る敗戦試合、そしてYSPラケット

卓球選手として試合に出た経験のある人であれば、必ず、記憶に残る勝利や記憶に残る敗北があると思う。それは、トーナメントの決勝戦であったり、入賞のかかった団体戦の5番手だったりするかもしれないが、一方で、他人が気づかないような、個人的なケースの場合もあるのではないかと推測する。WINGSPAN商品開発担当である私の、記憶に残る中学時代の敗戦試合について記したい。この敗戦試合もやっぱり、個人的なものである。

私の父は卓球経験者であり、またボランティアのような形で子供への卓球指導にも関わっていた事もあったようだ。私が小学生のころ、そんな父と地域の公民館や児童館で卓球をすることが好きだった。小学生時代の卓球経験は楽しい思い出しかない。

私は第2次ベビーブーム世代という事もあって、中学卓球部に入部した時、1年生の新入部員は30人を超えていた。遊び程度であれ、幸い父親に卓球を教わっていたため、中学1年生の時点で、ほかの部員よりも強かった。そのため熾烈な争いはあったものの、6人のレギュラーに入る事ができ、団体戦メンバーとして戦うことになった。

当時の用具についても触れたい。ここが重要な部分だ。私は小学生時代から父親から譲り受けた、上の写真のペンラケットを愛用していた。グリップの部分全てがコルクではなく、色の異なるの木材でデザインされているグリップだった。特徴と言えばそのくらいで、普通のペンという認識で間違いはない。

問題は、このラケットブランドが「YSP」だった事だ。このブログをお読みの方でも、TSPは知っていてもYSPは知らないという方は、少なくないかもしれない。簡単に説明するとTSPブランドの創業者、その兄の卓球ブランドがYSPである。YSPは私が中学生の時、すでに廃業していた。

話を用具から、中学時代の卓球部に戻したい。私はYSPブランドがすでに廃業していることを知りながら、公式戦や練習試合でラケットを使い、勝ったり負けたりしていた。そんな中で、迎えた中学2年生の初夏、中体連地区予選の団体戦に出場することになる。記憶に残る敗戦試合となる事も知らずに。

その団体戦の後半で私の出番となり、味方の応援の視線を背に受けつつ、台について練習を始めた。そしてラケット交換の時だった。相手の選手が言った。「このラケットの会社もう無いので、ラケット使えませんよね」

審判長許可があればラケットは使えるという事を、当時知らなかったわけでは無い。ただその時の自分は、白熱していた団体戦の進行を止めることが何か悪い事のように思えたのだ。少し考えて、私は補欠メンバーのペンラケットを借りて試合を行う選択をした。結果は惨憺たるものだった。

私は悔しかった。審判長許可をもらう選択をしなかった事、フィジカルや技術の未熟さ、そして先手をとって仕掛けなかった戦術の悪さなど、記憶をたどると敗因は色々ある。しかし、時を経て、不思議な悔しさも感じるようになる。

私には弟がいるが、卓球の腕は弟が上で、私は試合をしてもほとんど勝てない。それは兄として結構、悔しいものだ。そんなことが、YSPとTSPの兄弟に、それこそ自分勝手に重ねてしまっていた。YSPの兄は廃業が悔しかっただろうなぁ、と。

弟に卓球で勝てない兄、幼少時に初めて手にしたYSPラケットへの愛着、YSPラケットが関係する忘れられない敗戦試合、色々な点が線となって、YSPの廃業が、勝手に自分のことのように悔しくなったのだ。敗戦の記憶が増幅するわけである(笑)。これが私の記憶に残る敗戦とYSPラケットの話です。

記憶に残る敗戦、皆さんにもありますか。

ちなみに、YSPのラケットを私に譲った、この話の重要人物である、父親がその後どうしているかというと・・・

今でも、閃光Zを振り回して、元気に卓球をしています。