つげ義春と卓球

WINGSPANの公式ホームページは、ありがたいことに多くの訪問者に閲覧いただいている。弊社は今年創業3年目を迎えるが、ホームページの閲覧者数は増加を続けている。また、卓球ラケットメーカーによるブログが少ないからか、ブログの閲覧者数も非常に多い。5月に最も多く閲覧のあったブログのランキング3位までは以下の通り。

1位 卓球の才能は生得的なものか、それとも後天的なものか?
2位 子供におすすめする卓球映画はこの2本
3位 ラバーではなく、卓球ラケット試打の難しさについて

以上のブログは検索にひっかかりやすいキーワードなどもあるかもしれない。他のブログ記事も思った以上の閲覧数で驚く。これも弊社および、カーブラインシリーズに関心を持っていただいているおかげである。ところで、弊社ラケットを愛用してくださる方々のSNSを見させていただくことがあるが、共通点がある事がわかってきた。カーブラインシリーズの愛用者は、一言で言えばクリエイティビティが非常に高い。それは卓球だけでなく、卓球以外の部分でも何かを極めているというか、特別に秀でた方が多いように思う。そんなことは弊社として嬉しく思うだけでなく、とても勇気づけられる。

引き続き、卓球ラケットメーカーブログを更新していきたいと思う。今回のテーマは「つげ義春と卓球」。卓球に時間を割きながら、なおかつ、つげ義春に関心のある方が多いのか少ないのかはわからない。弊社ラケットユーザーがクリエイティビティが高いことを頼りに書き進めたい。

私は文学が好きでよく読むほうだ。振り返ってみると学生時代はひたすら自分の好みの作家の作品を読むという事をしていた。特に大学時代にその傾向が強まるのだが、それは文学に限らず表現における絶対的で本質的な良し悪しよりも、自分の好き嫌いですべての事を決定したがる傾向であった、とも言える。

その傾向に変化が現れたのは20代の後半になって、オーディオを少し良いものに変えたのがきっかけだった。真空管アンプを海外製のスピーカーにつないで音楽を聴くようになって、弦楽器の音の良さに驚いたのだ。その後クラシックに目覚めた。そこで初めて、今までの価値基準であった好き嫌いの軸を改め、評論家の本を参考にお薦め作品を徹底的に購入して体系的にクラシック作品を聴くようになった。いわば私にとって本質的な良し悪しの価値基準への転換とも言える。
当時は中古の輸入CDは破格の安さだった。(余談だが、世界で最もCDの多い街は新宿である。)ここで、作品を体系的に把握することで、評論家の批評というジャンルが楽しめるようになった。その熱の入れようはサントリーホールで行われた、吉田秀和のお別れ会に悲しみながらも参加しなければいけないほどだった。丸谷才一の秀逸な追悼の辞、病を押して登場した小澤征爾によるバッハ・・・。

そんな機が熟したタイミングで、現在WINGSPANの広報担当であるS氏から、文学評論家の本を貸して貰った。その本には日本文学についての批評と、必読の文学作品が掲載されていた。すでに文学の知識が深かったS氏の影響もあり、そこからは日本文学を体系的に把握することができるようになった。

という訳で、S氏も含めてWINGSPANは少なからず文学の影響下にある。今年発売されたラケットの一つ、オマドーン(OMMADAWN CLS)は、大江健三郎の後期作品からイメージの着想を得ている。また、最近になって気が付いたのだが、今年生誕100年で話題の安部公房の作品「他人の顔」で、文庫本の解説を大江健三郎が書いているが、本文を上回る暴れぶりの解説だった。ちなみに「他人の顔」は勅使河原宏監督が映画化していて、武満徹の名曲「ワルツ」が披露され、さらに入江美樹(小澤征爾夫人)が出演している。豊穣な時代だ。

《映画「他人の顔」より》

つれづれなるままに、書いてしまった。そして全く、つげ義春にたどりつかない。たどりつかなくなるのも当然で、つげ義春は漫画家だ。無駄に文学の話を書いてしまった。でも、無駄に大江健三郎や小澤征爾、武満徹の話をしたい時代になってきた気もする。

つげ義春の漫画については、ここでは割愛。この漫画家による「つげ義春日記」という作品があるが、これは漫画ではなく、日記文学、あるいは私小説とも言える作品だ。これが作品として本質的に良いとか悪いとかは別にして、私はとても好きなのだ。笑

キャッチコピーにはこうある。「伝説の漫画家が私生活の苦闘を描いた幻の日記、初文庫化」。なぜ、幻の日記なのかというのは、あまりにも家族の事情を赤裸々に描いたため、奥さんの藤原マキが生前、再販を許さなかったといわれている。

文中の登場人物は豪華だ、島尾敏雄はつげと交流があり「死の棘」をつげに贈呈したり、島尾の紹介で、埴谷雄高と会ったりして、つげは小説家には敬意を表すが、一方で横尾忠則については、関心のない人と言い辛辣である。また、生活の苦闘の中にも独自のユーモアがあるところが、漫画作品と共通する部分といえる。

さて、やっと本題だが、この「つげ義春日記」にはたびたび卓球という言葉が出てくる。(文中のマキは奥さん。正助は息子さんである。)

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(八月二十六日)
午後マキは卓球の練習に行った。自分は正助と川へ散歩に行ったが、胃の事を考え、暗い気持ちだった。

(十一月十一日)
朝っぱらからマキと口論した。今日はマキは卓球へ行く日。バレーや卓球、そのほか毎日マラソンもし、家の中での動作もバレーのような変な恰好をするので、私はイライラして批判した。運動するのは構わないけど、出かけるのが多過ぎる。体を動かすのが好きなら、そのエネルギーを家事に向けたらよいのだ。

(五月十九日)
今週は正助は弁当なしで午前中に戻ってくるが、午後はマキが卓球に連れて行ったので、自分としては助かった。

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このように、日本が誇る天才漫画家が、奥さんの卓球で一喜一憂する姿が面白い。
この話には、もう一つ私にとって関心事がある。この日記の書かれていた時代にすでに存在していた、卓球クラブがあるのだが、そのクラブの練習場所はつげ義春の自宅からとても近い。奥さんの藤原マキが通っていたとしてもおかしくない、その卓球クラブのチーム名は、なんと手塚治虫の人気キャラクターの名前を冠している。

つげ義春をイラだたせた、理由は実はそこなんじゃないか?